冷蔵庫から出して、パックを開ける。水が流れる。白い塊が手のひらに乗る。
重くはない。でも、軽くもない。
包丁を入れると、ほとんど抵抗がない。刃が入ったのか、豆腐が避けたのか、わからないくらい。切り分けた断面は、きめ細かく、濡れていて、何かの内側みたいな白さをしている。
皿に移す。醤油を垂らす。
そこで、ふと手が止まる。
どれだけ垂らせばいいのか、誰も教えてくれない。レシピにも書いていない。「適量」という言葉すら出てこない。ただ、自分の感覚に委ねるしかない。
これはおかしなことだと思わないだろうか。
料理というのは、ふつう作り手の意図が最後まで貫いている。塩加減、火の通し加減、盛り付けの角度。シェフが決め、客は受け取る。だが冷奴は違う。作った側が、最後の決定権を手放している。完成品として差し出しているのに、完成していない。
その放棄が、どこか清々しい。
口に入れると、最初に温度が来る。冷蔵庫の冷たさが、舌の上でゆっくりほどける。それから、かすかな甘みが来る。大豆の、素朴で遠い甘み。醤油が混ざり、生姜があれば、また変わる。でも、何が主役かは最後まではっきりしない。
強い味を食べたあとに豆腐を食べると、感覚がリセットされる感じがある。
味覚だけではなく、どこか気持ちの部分まで、いったんゼロに戻されるような。
あれは何だろうと、ずっと考えていた。
たぶん、豆腐は情報量が少ない。少なすぎるから、受け取る側の感覚がフル稼働する。強い音の中では小さな音は聞こえないけれど、静寂の中では遠くの虫の声まで聞こえてくる。豆腐はその、静寂のほうだ。
自分の感覚を使わないと、何も起きない食べ物。
高野豆腐というものがある。
同じ豆腐を凍らせて、乾燥させる。するとスポンジのような、まったく別の食感になる。出汁を含ませると、じゅっと広がる。あれを食べるとき、「これは豆腐だ」と思う人はあまりいないだろう。でも、大豆は大豆のままそこにいる。
油揚げも、厚揚げも、湯葉も、そうだ。
熱をかけると、圧をかけると、時間をかけると、まったく違う存在になる。なのに何かが残っている。形でも味でもなく、もっと根っこのところに、何かが。
変わり続けることで、消えない。
そういう在り方がある、ということを、豆腐は知っているように見える。
もう一度、冷奴の話に戻る。
醤油を垂らした豆腐を食べながら、ある感覚に気づく。
何も主張されていないのに、満足している。勝負されていないのに、充足している。
料理に「やられた」感がない。でも、食べた感がある。
これは奇妙な体験だ。
現代の食べ物のほとんどは、何かを主張する。濃くて、強くて、印象に残るように設計されている。食べ終わった後に、その味の記憶が残るように。ブランドのロゴのように、舌に刻まれるように。
豆腐は逆だ。
食べ終わった後に残るのは、豆腐の味ではなく、自分の感覚が動いた記憶だ。
何を感じたか、ではなく、感じることができた、という事実だけが残る。
空白から始まって、委ねて、感覚が動いて、形を変えて、また空白に戻る。
豆腐はたぶん、そういう構造をしている。
明日また冷蔵庫を開けて、同じパックを取り出すとき、
今日と同じ手つきで包丁を入れるだろう。
でもそれは、読み終えた今、あなたが気づいたことだから、ここには書かない。