── スーパーマリオと、生成AI時代の体験学習モデル
1985年発売のスーパーマリオブラザーズ。
ある日、幼稚園の息子に「マリオって、何年に生まれたか知ってる?」と聞かれ、
思わず「へぇ」と声が出た。
YouTubeを見すぎだな、と思ったのが半分。
もう半分は、40年近く前のゲームが、
いまも“現在進行形”で理解されていることへの、素直な驚きだった。
説明書の時代に、説明しなかったゲーム
1980年代。
ワープロや電子機器には、分厚い取扱説明書がついていた。
「まず読む」「理解してから使う」──それが当たり前の時代だ。
そんな中で、スーパーマリオはこう言ったかのようだった。
何も説明しない。
ただ、始めてくれ。
カセットを差し込み、スタートボタンを押す。
そこに現れるのは、静かな地平線だけだ。
World 1-1 は、無言の教師である
シーン1:右へ進むことを“考えさせない”
画面の左端に立つ、小さなマリオ。
右側だけが、意味を持って広がっている。
- 矢印はない
- チュートリアルもない
- しかし「右に進めばいい」と、誰もが自然に理解する
選択肢は与えない。
だが、判断はプレイヤーに委ねている。
動く。
跳ぶ。
数%の人は、Bダッシュにも気づく。
学習は、すでに始まっている。
シーン2:最初の死が、ルールを定義する
やがて、クリボーがノシノシと近づいてくる。
多くのプレイヤーは、避けられずにぶつかる。
マリオが倒れ、キャラクターがひとつ減る。
ここで、ゲームは初めてルールを言語化せずに提示する。
- 触れるとダメ
- でも、終わりではない
- 失敗は、やり直せる
この瞬間、ゲーム全体の文法が、ほぼ100%理解される。
シーン3:キノコは「教えないが、当たらせる」
進行すると、レンガブロックの帯の中に
ひとつだけ「?」ブロックが置かれている。
叩くと、クリボーとそっくりな“キノコ”が現れる。
先には、緑のドカン。
キノコは跳ね返り、こちらに戻ってくる。
多くのプレイヤーは、反射的にジャンプで避けようとする。
だが、ジャンプはレンガに弾かれ、
結局キノコにぶつかるよう設計されている。
結果、マリオは大きくなる。
説明はない。
だが、「理解」は、体験として身体に残る。
これは、ゲーミフィケーションではない
私は、この体験を
「ゲーミフィケーション」という言葉で終わらせたくない。
それは、
行動を楽しく装飾する話ではないからだ。
スーパーマリオがやっているのは、
- 正解を教えない
- 失敗を罰にしない
- しかし、必ず“踏ませる”
という、認知そのものの設計である。
AI時代の「スーパーマリオ的」体験学習モデル
ここで、生成AIの話をしたい。
生成AIは、
「答えを返す存在」から
「メンターとして振る舞える存在」へ変わりつつある。
それはつまり、
World 1-1 を差し出す役割を担える、ということだ。
パラレルで見る、学習設計
- 右にしか進めない
→ 問いの射程を限定する - クリボーで失敗する
→ 仮説が外れる体験を用意する - 残機がある
→ 失敗コストを極端に低くする - キノコに当たる
→ 正解に“偶然”触れさせる - 大きくなる
→ 認知フレームが変わる
コンサルタント養成としての応用
私が関わるコンサルタント育成でも、
同じ構造が使えると考えている。
- 最初から答えを教えない
- 課題に“ぶつかる”設計をする
- 仮説 → 失敗 → 修正を繰り返す
- AIは解答集ではなく、伴走者になる
生成AIは、説明書ではなく、
何度でもやり直せる World 1-1 を用意する存在になれる。
結論:World 1-1 を、もう一度つくる
スーパーマリオは、40年前にひとつの事実を証明した。
学びは、必ずしも説明から始めなくてもいい、とうことを。
教えなくても、人は理解できる。
正解を示さなくても、前に進める。
必要なのは、失敗しても立ち止まらない構造だった。
そして今、生成AIは
同じ立場に立てる存在になった。
答えを返す教師ではなく、
試行錯誤を受け止める無言のメンターとして。
私はこれを、
「AI教育」や「ゲーミフィケーション」とも呼びたくない。
それはただ、
World 1-1 を、もう一度つくることなのだ。
※ 本記事の思想を、
新人育成プログラムとして構造化した図解は、

コメント
“World 1-1 は、最初から“教える気がなかった” への1件のフィードバック
[…] 以前、スーパーマリオを例に「説明はいらない体験の設計」について書いたことがあります。 […]