— ジャパニーズポップカルチャーの深層構造論
1. 序論:「推し」はなぜ人生の重心になりうるのか
現代日本において「推し(Oshi)」という言葉は、単なる嗜好対象を指す語ではない。
それは娯楽であり、信仰であり、生活リズムであり、ときに人生の意味づけそのものになる。
「推しが存在しているだけで尊い(Toutoi)」
「供給過多で情緒が追いつかない」
「解釈が一致して静かに致命傷を負う」
これらは戯画的な言い回しでありながら、偶然の産物ではない。
そこには、感情を安全に預け、循環させ、回復させるための
高度に制度化された感情運用の仕組みが存在している。
本稿は、日本独自の推し文化が突発的に生まれた現象ではなく、
- 宝塚歌劇団という制度的装置
- 『ベルサイユのばら』という思想的コンテンツ
を経由しながら、長い時間をかけて準備されてきた文化的構造であることを整理する試みである。
2. 宝塚歌劇団:システムとしての「推し」の発生装置
2.1 「清く正しく美しく」という逆説的設計
宝塚歌劇団は1914年に創設された。
その標語「清く正しく美しく」は、女性が舞台に立つことへの社会的警戒を和らげるための制度的設計であった。
しかし、この「清廉さ」は逆説的な効果をもたらす。
- 世俗から切り離された存在
- 私生活の不可視化
- 夢の世界に属する人格
これらの条件が揃うことで、観客は評価よりも先に庇護と献身の感情を抱く。
「上手い」ではなく「守りたい」。
ここに、日本型アイドル美学と推し文化の原型がある。
2.2 男役(Otokoyaku)という虚構の男性性
宝塚最大の発明は男役(Otokoyaku)である。
それは現実の男性の再現ではなく、女性が理想化した男性性の抽出物だ。
- 強いが威圧しない
- 優しいが支配しない
- 欲望を露骨に表出しない
観客は、演者が女性であることを知っている。
それでも没入できるのは、この男性像が虚構であることが保証されているからである。
研究者ジェニファー・ロバートソンが指摘するように、
男役とは「女性の、女性による、女性のための男性像」であり、
政治的主張としてのジェンダー表象ではなく、
安全に消費可能な理想的異性愛の形式として設計された存在であった。
そこでは、性的な生々しさ(肉欲)は排除され、
純粋にプラトニックな感情だけが抽出される。
3. 『ベルサイユのばら』:推しが思想を帯びた瞬間
3.1 2.5次元という成立条件
宝塚による『ベルサイユのばら』の舞台化は、
漫画(2D)と舞台(3D)のあいだにある最適解、
すなわち2.5次元表現を確立した。
オスカルの造形は写実的演劇では成立しない。
誇張と様式美を前提とした舞台だからこそ、成立した存在である。
3.2 オスカル・フランソワという主体
オスカルは勝者ではない。
男性社会にも、女性に期待される役割にも、完全には回収されない。
それでも彼女は、
- 信念を曲げず
- 弱者を見捨てず
- 愛するが、依存しない
推しとは成功や達成ではなく、
「どう在ろうとしたか」に向けられる感情であることを、
オスカルは明確に示した。
3.3 死と不可逆性が生む感情の密度
『ベルサイユのばら』では主要人物は死ぬ。
救済も、やり直しもない。
この不可逆性が、感情の密度を極限まで高める。
宝塚における退団(卒業)システムも同型である。
終わりがあらかじめ設定されているからこそ、
観客はその時間を濃密に生きる。
4. 推し活の心理構造:6つの段階的レイヤー
以下は、日本マーケティング学会等の既存研究を整理したものである。
LEVEL 1|献身(Devotion)
金銭や時間を捧げること自体に意味を見出す。
LEVEL 2|蒐集(Collection)
グッズを集め、可視化する快楽。
LEVEL 3|帰属(Belonging)
コミュニティに属することで得られる安心感。
LEVEL 4|創作(Creation)
二次創作や考察による能動的参加。
LEVEL 5|布教(Propagation)
価値を共有し、他者を招き入れる行為。
LEVEL 6|浪費(Squandering)
合理性を超えた消費によって愛を証明する段階。
これらは非合理な行動ではなく、
自己効力感と社会的接続を回復させる循環装置として機能している。
5. 海外における再解釈と文化翻訳
宝塚や『ベルサイユのばら』は、海外ではQueer Cultureの文脈で再解釈されてきた。
それは日本側の意図とは異なる読みである一方、
新たな価値を生み出す文化翻訳でもある。
日本における宝塚受容の中心は、
ジェンダー闘争ではなく、
安全に没入できる夢の形式にあった。
この差異は対立ではなく、
解釈が移動した結果にすぎない。
6. アニミズムOSという仮説的補助線
ここまでの現象を眺めていると、
日本文化に深く根づくアニミズム的感受性との関連を連想せずにはいられない。
虚構や役割、関係性に実在性を与える感覚。
それは推しという言葉以前から存在していた。
もっとも、この関連性を本稿で断定するつもりはない。
むしろ、この感覚に最も近いのは「推し」よりも
「萌え(Moe)」という即時的情動だろう。
この点については、別稿に委ねたい。
7. 結論:推しとは、古すぎる感情構造の再起動である
宝塚歌劇団と『ベルサイユのばら』が示してきたのは、
娯楽の成功例ではない。
それは、
- 虚構であると知りながら信じる態度
- 終わりがあるからこそ生まれる感情の密度
- 他者を支えることで自己を保つ循環
を、制度と物語のかたちで長期運用してきた文化装置である。
今後、AIやメタバースによって、
推し活はさらに没入的になるだろう。
それは宝塚の「銀橋」の技術的拡張にすぎない。
重要なのは、
どれほど技術が進化しても、
欲望の構造がほとんど変わっていないという事実だ。
推しとは、新しい消費行動ではない。
それは、人類が太古から内包してきた感情構造が、
現代社会に適応するために再起動された形にすぎない。
私たちはいま、
未来のテクノロジーを通して、
あまりにも古い感情の層に、
もう一度触れてしまったのかもしれない。
