── 政は、まつりごとだった
「政(まつりごと)」という言葉が、
最近、妙に気になっている。
政治というと、
制度やルール、意思決定の仕組みを思い浮かべがちだ。
けれど日本語では、
それを「まつりごと」と呼んできた。
この言い回しは、
少しだけ体温が高い。
政は、管理ではなく「コト」だった
「こと」という言葉には、
出来事や体験という意味が含まれている。
モノのように持てるわけでもなく、
数字のように固定できるわけでもない。
けれど人は、
何を決めたかよりも、
どんなコトを体験したかを覚えている。
政(まつりごと)とは、
決定事項そのものではなく、
人が同じ体験をするための段取り
だったのではないかと思う。
まつりは、合意形成装置だった
まつりには、説明が少ない。
議題もなければ、
ゴールも曖昧だ。
それでも人は集まり、
- 同じ道を歩き
- 同じ音を聞き
- 同じ空気を吸う
そうして、
「まあ、こんな感じだよね」
という感覚を共有する。
合意は、
議論の末に獲得されるものというより、
体験の副産物として立ち上がる。
人は、論理ではなく「場」で動く
現代の会議は、整っている。
PowerPointがあり、
論点が整理され、
正しさが順番に提示される。
理解はできる。
反論もない。
それでも、
なぜか動かないことがある。
それはきっと、
場を共有していないからだ。
理解と納得は、
似ているようで、少し違う。
三つの軸で眺めてみる
ここで、少し視点を引いてみる。
- 横軸:地域
- 縦軸:歴史
- もう一つの軸:文化と政治
地域
まつりの形は違う。
けれど「集まる体験」は、どこにもある。
歴史
時代が進むほど、
政は制度になり、
体験は説明に置き換えられていった。
文化と政治
文化は、感じるもの。
政治は、決めるもの。
けれど本来は、
感じながら決めていた。
PowerPointは、
この三軸のうち、
体験の部分をほとんど扱わない。
仕事から消えた「まつりごと」
仕事の現場も、少し似ている。
- 同じ時間を過ごすこと
- 迷いを共有すること
- 決まる前の揺らぎ
そうしたコトは、
効率の名のもとに削られてきた。
残ったのは、
- 説明
- 確認
- 記録
どれも必要だが、
それだけでは、
合意は生まれにくい。
体験を増やそう、という話ではない
誤解はしたくない。
- 会議を増やしたいわけでもない
- 非効率を讃えたいわけでもない
ただ、
合意形成とは、
正しさを積み上げることではなく、
何を一緒に体験したかではないか
そう考えてみたいだけだ。
さいごに
合意形成に必要だったのは、
完璧な資料でも、
ロジカルな構成でもなく、
もしかすると
「なんだかよく分からないけど、来ちゃった」
という体験だったのかもしれない。
政がまつりごとだった時代、
「これ、何を決める祭りなんだっけ?」
— そう、誰かが言った。
その瞬間、
もう合意は、
始まっていたのだと思う。
