髪の毛の匂いを嗅ぎあって
くさいなあってふざけあったり
くだらないの中にあいが
人は笑うように生きる
── くだらないの中に
この一節を聴いたとき、私はなぜか
竪穴式住居の中で、火に照らされる二人の縄文人を思い浮かべた。
理由はうまく説明できない。
ただ、暗闇の中で距離の近い二人が、
取り立てて意味のないことで笑っている光景だけが、
不思議なほど鮮明に立ち上がってきた。
竪穴式住居の夜と、極端に小さな世界
縄文時代の共同体は、いまよりはるかに小さかった。
ダンバー数という言葉を持ち出すまでもなく、
人が一生の中で深く関われる人数は、
ごく限られていたはずだ。
その代わり、世界は今よりずっと大きかった。
電灯のない夜。
焚き火の明かりが、顔の輪郭だけを浮かび上がらせる。
住居の外に出れば、空は果てしなく、
星は「眺める対象」ではなく、
生活の天井としてそこにあった。
人間関係は小さく、
自然と宇宙は圧倒的に大きい。
このスケール感の中で、
人は「意味」ではなく
くだらなさを共有することで生き延びてきたのではないか。
そんな気がしてならない。
豊かすぎる土地と、つながりの細さ
少し話を現代に戻す。
記憶に新しい、能登を中心とした大きな地震。
あの地域は、海にも山にも恵まれ、
食も自然も、きわめて豊かな土地だ。
一方で、
「豊かであるがゆえに」
他地域との交流が細くなりやすかったのではないか、
という指摘もある。
自給的で完結した暮らしは、
平時には美しく、誇らしい。
しかし非常時には、
外部との接続の弱さとして表面化してしまう。
復興困難地域という言葉が示すのは、
単なる地理条件ではなく、
つながりの構造そのものなのかもしれない。
これは批判ではない。
むしろ、善意や自立心の延長線上に生まれる
「静かな孤立」の話だ。
人は結局、顔が浮かぶ誰かで生きている
制度やインフラは重要だ。
だが、災害時に人が最初に頼るのは、
それらよりも先に、
顔が浮かぶ誰かであることが多い。
くだらない冗談を言い合った相手。
匂いや癖を知っている相手。
説明しなくても空気が通じる相手。
縄文の焚き火の前も、
現代の被災地も、
構造は驚くほど似ている。
人は、
「合理的なネットワーク」ではなく、
意味のないことを共有できる関係によって、
最後の一歩を踏みとどまってきた。
人生ゲームという、残りつづけるアナログ性
前回では、人生ゲームについての記事を書いた。
時代が変わるたびに、
職業や価値観、マス目の内容は更新されていく。
それでも変わらないものがある。
ルーレットを回すこと。
思い通りに進まないこと。
失敗を笑いに変えること。
そこにあるのは、
効率でも最適解でもなく、
偶然と、くだらなさへの耐性だ。
人生ゲームが長く愛され続けているのは、
それが現代的だからではない。
むしろ、
縄文の焚き火や、
星野源の歌詞と同じ場所に立っているからだと思う。
人が核で、テクノロジーは外縁にある構造
これから私たちが本当に磨くべきなのは、
テクノロジー中心の社会ではない。
かといって、
人間回帰だけを唱えるノスタルジーでもない。
必要なのは構造だ。
中心には、
人と人との、少数で強い結びつきがある。
くだらないことを共有できる関係がある。
その周りを、
生成AIを含むテクノロジーが
静かに、壊さない形で支える。
判断を奪わず、
関係を代替せず、
共同体が続くための補助輪として存在する。
そんな配置が、
これからの社会には必要なのだと思う。
くだらなさを守るという、未来志向
人は、
くだらないことで笑いながら、
思っているよりずっと長い時間を生き延びてきた。
それは過去の話ではない。
未来の設計図でもある。
星野源の歌詞に宿る感覚も、
縄文の竪穴式住居の闇も、
人生ゲームの盤上も、
すべて同じ場所を指している。
人は、くだらなさの中でこそ、 ちゃんと生きる。
