ミッキー吉野と小澤征爾。
この二人を並べると、
しばしばこう整理される。
- ポップスとクラシック
- 英語と非言語
- 混交と純化
たしかに、表層だけを見れば対照的だ。
活動のフィールドも、用いた言語も、文化との距離の取り方も、ほとんど正反対に見える。
しかし、ミームという単位で見たとき、
彼らは本当に「別種」だったのだろうか。
答えは、おそらく違う。
むしろ、
同じ祖型から分化した二つの進化形に近い。
ミームの三つの基本要素
文化ミームは、概ね次の三層で構成される。
- キャリア(運搬体)
どの媒体・形式で運ばれるか - コア(核)
何が本質として保持されるか - 適応様式
環境にどう変形するか
この三点で二人を並べると、
違いと共通点がはっきりする。
① キャリアの違い:外殻はまったく異なる
ゴダイゴ(ミッキー吉野)
- キャリア:
英語、ロック、ディスコ、テレビ主題歌 - 流通経路:
大量複製・高速拡散 - 特性:
変異を前提とした拡散型ミーム
ゴダイゴは、
壊れやすく、軽く、速い容器を選んだ。
環境に合わせて形を変え、
壊れながらも、次へ渡っていくことを前提とした構造だった。
小澤征爾(小澤征爾)
- キャリア:
交響曲、楽譜、オーケストラ - 流通経路:
教育・演奏・評価という長期回路 - 特性:
高忠実度・低変異のミーム
小澤は、
重く、厳格で、壊れにくい容器に身を置いた。
変えないこと、
耐えること、
深く沈み込むことを選んだ。
② コアの共通性:保持されたものは同じだった
では、
その内側にあった「核」は何か。
ここで両者は、
驚くほど近づく。
共通するミームの核は、次のようなものだ。
- 自然への感応
- 無常への感受性
- 沈むものへの美意識
言い換えれば、
太陽ではなく、夕日を選ぶ感性。
- ゴダイゴにとっては、
南朝という「敗者の正統性」 - 小澤征爾にとっては、
夕日という「文化を超える感情」
形式は違う。
だが、震源は同じ場所にある。
③南朝という原型:敗者の正統性
ここで一つ、立ち止まる必要がある。
ゴダイゴのミームの核を語るとき、
後醍醐天皇と吉野朝(南朝)の話は避けられない。
南北朝時代。
政治的実権は京都の北朝にあった。
しかし、
三種の神器を保持していたのは吉野の南朝だった。
中心ではない。
だが、正統である。
敗れている。
だが、消えていない。
この構造に、
ミッキー吉野は自らを重ねた。
英語で歌う。
ロックをやる。
テレビ主題歌をやる。
それは中心への同化ではなく、
周縁からの再定義だった。
南朝は、
権力ではなく「正統性」を持つ。
ゴダイゴもまた、
商業中心ではなく、
精神的な正統性を選んだ。
そしてそこに、
もう一つの色が重なる。
赤。
オレンジ。
夕日。
沈む太陽は、
敗北ではない。
明日へ回る循環である。
Go – Die – Go。
死と再生の循環。
南朝という物語は、
ゴダイゴの思想的ミームの原型だった。
④ 適応様式の違い:進化の方向が異なっただけ
ゴダイゴの適応
- 意図的な変異
- 異種混交
- 文脈の再編集
→ 高変異型ミーム
環境に合わせて姿を変え、生き残る。
小澤征爾の適応
- 忠実な再現
- 内面化
- 普遍への収束
→ 低変異型ミーム
変えずに耐え、深く浸透する。
多様性とは「違うこと」ではない
ここで重要なのは、
多様性=バラバラ、ではないという点だ。
ミームの多様性とは、
同じ核が、
異なる速度と形態で生き延びること
を意味する。
ゴダイゴがなければ、
日本文化は軽やかさを得られなかった。
小澤征爾がなければ、
日本文化は深さを証明できなかった。
共通性とは「同一性」ではない
一方、共通性とは、
同じであることではない。
翻訳不能な領域で、
共振できること。
夕日を見て、
言葉を介さずに同じ感情が立ち上がる。
その地点で初めて、
文化は「説明」から解放される。
ミームは、主張しない
二人の戦略に共通する、
もう一つの重要な点がある。
彼らは、
日本文化を主張していない。
誇示もしない。
防衛もしない。
ただ、
置いた。
- 英語の中に
- 楽譜の奥に
- 夕日の色として
ミームは、叫ばない。
説明もしない。
それでも、
いつのまにか残っている。
沈むものを美しいと感じた、その瞬間、
文化はすでに、どこかへ渡っている。