1|英雄を拒むという出発点
英雄とは何か。その問いに対して、日本のアニメ史は一度、明確に「否」と答えた。アムロ・レイと碇シンジは、巨大な力を与えられながら、それを祝福しない。彼らは剣を取らず、誓いも立てず、ただ逃げたいと願う。アムロは叫ぶ。「二度もぶった! 親父にもぶたれたことないのに!」。シンジは呟く。「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」。重要なのは、これらが決意の言葉ではなく、拒絶と恐怖を抑え込むための自己暗示だという点だ。欧米的英雄像が前提とする主体性、すなわち「自ら選び、介入する意思」は、彼らの内部に最初から存在しない。彼らは選ばれたのではなく、押し込まれた。ロボットに乗ることは使命ではなく、罰に近い。だから彼らは、英雄である前に被介入者であり、観測者であり、犠牲者として物語を始める。この反転が、日本では共感を生み、海外では長らく苛立ちを生んできた。
2|社会的比較──「弱さ」はなぜ誤読されたのか
海外で彼らが「Whiny(弱虫)」「Wimpy(女々しい)」と評されてきた理由は、個人の嗜好ではなく社会制度に根ざしている。象徴的なのがGood Samaritan Law(善きサマリア人の法)だ。これは、困っている他者を善意で救助し、結果的に失敗や損害を招いても、重大な過失がない限り法的責任を問わないという原則で、アメリカをはじめ多くの国で社会常識として浸透している。ここでは「助けること」は道徳である以前に、制度的に保護された行為だ。介入は称揚され、リスクは社会が引き受ける。そのため力を持つ者が行動しないことは、倫理的欠陥として読まれやすい。一方、日本社会にはこのような包括的免責の感覚が弱い。介入は常に「迷惑」や「責任追及」のリスクを伴い、善意はしばしば自己責任へと転化される。この環境では、行動しないことは怠慢ではなく、合理的な自己防衛になる。アムロやシンジの「乗りたくない」という拒絶は、勇気の欠如ではない。契約も免責もないまま、無限責任を一方的に負わされる構造への本能的な抵抗だ。日本の視聴者はそこに、会社、学校、組織、空気に縛られ、「やりたくないが、やらなければならない」状況に置かれた自分自身を見る。逃げたいが逃げ場がない。その状態で完全に壊れず、踏みとどまっている姿として、彼らは読まれてきた。
3|神道的解釈──なぜ少年が「依代」にされるのか
日本的文脈を補助線として引くと、彼らの位置づけはさらに明確になる。神道において重要なのは、主体的に世界を変える英雄ではなく、力を一時的に通過させられる「依代(よりしろ)」の存在だ。エヴァンゲリオンは単なる兵器ではなく、何かが宿る器であり、シンジは操縦者というより、力を降ろされる媒体に近い。ここで一つの問いが生じる。なぜ依代を担わされるのは、常に少年なのか。なぜ穢れを引き受ける役割が、若年男性に集中するのか。
エクスキューズはこうだ。これは偶然でも作劇上の便宜でもない。社会が最も抵抗力の弱い存在に、不可視の負荷を集中的に載せてきた結果である。少年は「未完成」であり、「まだ人格が固まっていない」と見なされる。そのため、犠牲や消耗が不可逆であることが見えにくい。神道において血や死は「穢れ」であり、本来は共同体全体で引き受け、禊によって回復されるべきものだ。しかし現代社会では、その共同体が機能しない。穢れは分散されず、少年という一点に集約される。アンサーは明確だ。彼らは選ばれた存在ではなく、引き受けさせられた存在である。この構図は、自己犠牲を美徳としながら、回復や免責を用意しない社会の縮図でもある。そしてこの感覚は、日本固有のものにとどまらず、役割期待と消耗を強いられる現代の若者、とりわけ海外のZ世代の感覚とも静かに接続していく。
4|カルマの正体とは何か──責任から業へ
二人が背負う「カルマ」とは、超自然的な運命ではない。それは制度でも思想でもなく、世代を越えて無自覚に継承される因果である。それが制度でも思想でもなく、世代を越えて無自覚に継承されるとき、それはもはや責任ではなく業になる。アムロのカルマは、能力主義の呪いだ。理解できるがゆえに殺さねばならず、有能であるがゆえに戦争機械として消費される。シンジのカルマは、社会という緩衝材の不在である。善きサマリア人の法も、父を乗り越える物語も与えられないまま、世界の危機を一身に引き受けさせられる。この構造は、迫りくる環境問題や、第二次トランプ政権以降に顕在化した民主主義の価値観の揺らぎとも重なる。誰も単独では止められない問題が、しかし個人の選択や責任として降りかかる。そのとき人は、倫理ではなく業として世界を引き受けることになる。
5|結び──Z世代が理解し始めたもの
近年、この物語は海外でも新たに読まれ始めている。ただし、Z世代が理解したのは「優しさ」ではない。彼らが見出したのは、「自分も同じ場所に立たされている」という諦観だ。経済的不安、気候危機、分断された政治。逃げ場のない現実の中で、万能で即断即決する英雄像はもはや現実的ではない。不安に震え、拒みながらも席を立たないシンジの姿は、「弱虫」ではなく、現在地の正確な写像として読まれるようになった。アムロとシンジは、英雄になれなかった存在ではない。英雄であることを疑い続けたまま、それでも現場に残り続けた人間の物語なのである。
