つげ義春。
あんな風情の作家は、現代に存在するのだろうか。
ご本人ご存命であればご容赦頂きたい。
私はかつて『ねじ式』や『無能の人』を読み、
深くその世界観に浸っていたことを思い出す。
直接のきっかけは、
中国で若者浮浪者が増えているというニュースだった。
映像に映っていたのは
大きな川の高架下。
ゴツゴツした石ころの上に置かれた一人用のテント。
その前で、寝転がったまま動こうとしない若者。
殺伐としたワンシーンだった。
そして、その映像を見た瞬間
ふと、ある着想に至った。
つげ義春の世界は、いま成立するのだろうか。
高度経済成長の時代には強い光があった。
そして光がある場所には必ず影が生まれる。
アングラと呼ばれた劇場やマンガ雑誌。
それらは、その影の中から立ち上がった文化だった。
暗い場所で焚き火を囲むように。
そこに集まった若者の顔。
チラチラと火に照らされる瞳。
それは、どこか輝かしくもあったのではないか。
だが令和の今、
その構造はまるで違う。
『ねじ式』に出てくるような
愛すべき貧乏人は、ほとんど見かけない。
むしろ逆だ。
誰もがスターバックスを飲み、
金持ちなのか貧乏なのか外見からはわからない。
そして、
かつてのようなアングラ文化も存在しない。
もっと冷たい場所。
光が差し込まない場所。
そんな領域が
どこかに広がっているようにも思える。
かつてのアングラ文化には
まだ「受け皿」があった。
カウンターカルチャーとして
人々が眺め、語り、愛でることができた。
しかし今は違う。
文化はもっと細分化され、
見えない場所へ沈んでいる。
孤独もまた、小さく分割されてしまった。
だからこそ思う。
忘れ去られる前に、
あの時代のアングラカルチャーは
きちんと
後世に届いてほしい。
紙の雑誌でもなく古い単行本でもなく
デジタルの形で。