河川敷の広い公園は、午後の光で少しだけ白く霞んでいる。
芝生の匂いと、遠くの水面の反射。
駐車場のどこかの車から、爆音でサザンが流れている。
あれは「真夏の果実」だ。
けれど遠い。
爆音のはずなのに、くぐもっている。
歌詞はほとんど聞き取れない。
それでも、桑田節だとわかる。
聞き取れないのに、よくわかる。
子供たちはボールを追いかけ、
妻は笑いながらそれを見ている。
私はベンチに腰掛け、その光景を眺めながら、
どこかアンニュイな気持ちになる。
幸せなはずの時間の隅に、
薄く影が差すような感覚。
理由はない。
ただ、くぐもった音域の向こう側に、
自分の時間が重なっていく。
私たちはいったい何年、
サザンを聞いてきたのだろう。
学生の頃か。
社会人になった頃か。
海辺か、車内か、誰かの部屋か。
好きだったのかと問われると、
少し言葉に詰まる。
正直に言えば、
私はこの「真夏の果実」を、強く愛した記憶はない。
でも、確実にそこにあった。
夏のどこかに。
誰かの横に。
自分の背後に。
ポップソングは、
私の意思とは関係なく、
人生の背景に入り込んでくる。
推したわけでもない。
選び取ったわけでもない。
それなのに、
気づけば風景の一部になっている。
今、私が感じているこのアンニュイは、
たぶん未完成の感情なのだろう。
子供たちがもう少し大きくなり、
この公園に来ることが減り、
家族四人で無邪気に大笑いしていた今日という日が
遠くなったとき。
そのとき、
ふと「真夏の果実」が流れたらどうだろう。
今日の芝生の匂い。
白く霞んだ午後の光。
遠くから聞こえるくぐもった爆音。
それらが一斉に結びついて、
アンニュイは、きっと哀愁に変わる。
そして私は、そのときになってようやく、
この曲を「自分のもの」と呼ぶのかもしれない。
真夏の果実は、まだ私のものではない。
けれど、
いつか私の時間と結びつく日が来る。
ポップソングは、
愛しているから残るのではない。
時間と接続したときに、
はじめて自分のものになる。
今はまだ、ただの爆音だ。
少しくぐもった、夏の環境音。
だが、未来のどこかで回収される感情の種が、
この午後に、そっと蒔かれている。
私はそれを、
まだ名前のない感情のまま、
体の中に置いておこうと思う。