―釣り堀と、あとから起動した透明なレイヤー
今日、息子と釣り堀に行った。
空は曇りきらず、晴れきらず、水面はぬるく光っていた。
ウキは、動かない。
時間だけが、ゆっくりと伸びていく。
息子は途中で飽きて、池の縁の石を並べはじめた。
水草を棒でつついて、ひとりで笑っている。
私は、
釣れないままの自分に、
少しだけ苛立っていた。
ねり餌を指でこねる。
甘いような、生臭いような匂い。
指先に、ぬめりが残る。
乾いても、
完全には消えない感触。
水面の向こうで、
赤い群れがゆらゆらと揺れている。
見えている。
見えているから、簡単に釣れそうな気がする。
鯉をあきらめ、
息子の小さな竿を手に取る。
浅い池で金魚を狙う。
赤い一匹一匹が、餌のまわりを旋回している。
寄ってくる。
離れる。
また寄る。
ウキは沈まない。
あたりは、ない。
何も起きない時間が、ゆっくりと濁る。
その濁りに耐えきれず、
私は、強めにしゃくり上げた。
その瞬間。
真っ赤な一匹が、こちらへ向かってくる。
「釣れた」と思った。
だが、違った。
針は、
金魚の右目を貫いていた。
水面はすぐに静かになる。
息子は見ていない。
世界は、何も変わっていない顔をしている。
だが、目だけが壊れていた。
私は偶然、
その金魚を引っ掛けただけだった。
事故だった。
そう言おうとすれば言える。
だが、
ねり餌の匂いが、まだ指に残っている。
時間が、止まる。
そのとき、
遅れて、頭の中で何かが起動する。
まるで、現実の上にもう一枚の透明な層が重なるように。
行為が、言い訳より先に解析される。
【意思の交差:検出中】
金魚は、
餌に寄ってきていた。
だが、
針をくわえたわけではない。
私は、その途中を、引き上げた。
判定:✕ (ブブー)
・・・見えない文字が浮かぶ。水面の上に、
【公平性:評価中】
それは、待つ技術だったか。
それとも、苛立ちの出口だったか。
✕ (ブブー)
・・・ねり餌の匂いが、急に強くなる。
【生存配慮:推定中】
眼球損傷。
捕食能力低下。
感染リスク。
判定:△
・・・私は、竿を握ったまま立っている。
その透明なレイヤーは、現実には存在しない。
だが、
内側では消えない。
もしこれがeスポーツだったら。
画面の中のキャラクターが倒れても、リセットすればよかった。
失明もない。
匂いもない。
ぬめりもない。
だがここには、身体がある。
目がある。
そして、ぼんやりしすぎた私がいる。
あの瞬間まで、
私はただ、週末の空気に浸りすぎていた。
何も起きない時間。
だが、
何も起きない時間の中にも、倫理は流れている。
それを見ないまま、私はしゃくった。
スポーツかどうかは、後からいくらでも判定できる。
だが本当は、
あの“前”に、気づけたはずだった。
ねり餌の匂いは、まだ消えない。
乾いた指先が、ざらついている。
あの一匹は、スポーツではなかった。
だが、そのあとに始まったこの透明な解析は、
もしかすると、スポーツの入口かもしれない。
スポーツとは、魚と戦うことではなく、
ぼんやりした自分と戦うことだったのだ。
ねり餌の匂いは、まだ消えない。
指を洗っても、少しだけ残る。
水面は、何もなかったように揺れている。
私は、
もう一度、竿を握った。