小学生の教室で、先生が名前を呼ぶ。
すると、その子は、迷わずこちらに走ってくる。
呼ばれたから、走る。
考えない。計算しない。
それは、不合理だろうか。
私たちはいつから、
呼ばれても、走らなくなったのだろう。
代わりに、損得を計算するようになった。
年金は得か損か。
手取りはいくらか。
自分の世代は回収できるか。
それは合理的な問いだ。
むしろ、成熟した社会の証でもある。
だが、その合理性は、どこまで届いているだろう。
老後が不安な社会では、
子どもは増えない。
これは感情論ではない。
射程の問題かもしれない。
将来が信じられないとき、人は自己防衛を選ぶ。
合理的に、正しく、防御する。
その結果、出生は後回しになる。
みんなが合理的に振る舞った。
だから少子化が進んだ。
少しだけ、皮肉だ。
「年金は損だ」と言う。
「少子化は問題だ」と言う。
どちらも合理的だ。
けれど、その計算式には、
まだ生まれていない子どもは入っているだろうか。
合理性を疑う前に、合理性の射程を疑ってみる。
10年先までの合理性と、
40年先までの合理性は、同じ言葉でも意味が違う。
短い射程の言葉は、よく拡散する。
「損だ」「破綻する」「奪われている」
長い射程の言葉は、あまり広がらない。
「信頼」「安定」「循環」
静かすぎるからだ。
だが、社会は、静かなものの上にしか建たない。
呼ばれたら、走る。
あの単純さの中には、信頼があった。
自分が呼ばれたとき、そこに意味があると、疑わない。
合理性を捨てる必要はない。
ただ、射程を伸ばす。
射程が伸びると、自己防衛は共同体設計に変わる。
冷たいはずの合理性の先に、あたたかい循環が見えてくる。
呼ばれたら、走る。
その姿は不合理に見えるかもしれない。
けれど、
社会がもう一度前に進むとしたら、
少しだけ、
あの単純さを思い出すところから始まるのかもしれない。