──いとうせいこうから、むかし教わった気がすること
正直に言うと、
「狩猟型資本主義から園芸型へ」みたいな話には、あまり乗れない。
あまりにも説明がうまく、あまりにも二項対立が整理されすぎている。
歴史はそんなに素直ではないし、
資本主義はいつの時代も混ざりものだ。
それでも。
いとうせいこうの、あの笑いながらもメガネの奥に光る視線を思い出すと、
やはり何かが「庭」に近い方向へ動いている気がする。
講談社という「庭」を、自分の畑にした男
学生時代の熱量のまま、
講談社に入り、すぐに誌面を裁量化する。
編集者というポジションを「原稿をまとめる人」ではなく、
場を編成する人に変えてしまった。
音楽、文学、テレビ、ラップ、園芸。
ジャンルを横断しながら、どこへ行っても「庭」をつくる。
庭とは何か。
それは、自分の主張を押し付ける場所ではない。
人が集まり、少し混ざり、少しぶつかり、
気づけば何かが育っている場所だ。
「終わることのない俺のヘタの横好き」
7年にわたって植物を育て続ける。
その記録に並ぶ言葉たち。
- 天体の神秘
- 新しい植物との出会い
- 領地争い回避か
- 一匹のアゲハ蝶
- 未来の新植物
- カリフラワー感謝祭の夢
- シーモンキー再びの誕生か
- 復活を見守る
- ドラゴンフルーツの開花
- 食虫植物ダイニング
この語彙の軽さ。そして、その裏にある観察の深さ。
「終わることのない俺のヘタの横好き」
これは、怠慢ではない。
これは、支配を諦めた者の強さだ。
植物は思い通りにならない。
市場も、コミュニティも、人間も、思い通りにならない。
その前提に立ってなお、手をかけ続ける。
これが、私が学んだ「フェス的経営」の原型だ。
フェスとは、支配しないコントロール
フェスは、完全に自由ではない。
タイムテーブルはある。
ステージ設計もある。
電源も警備も計算されている。
しかし、参加者は「やらされている」と感じない。
そこが決定的だ。
いとうせいこうの視座は、まさにこの位置にある。
彼は場の中心にいながら、自分が主役だとは言わない。
だが、
場がどう流れるかは見ている。
これは「ボタニカル・マネジメント」だ。
強植物性(自然放置)でもなく、強人間性(完全統制)でもない。
園芸二重スパイ。
自然と人為のあいだを行き来する。
慌てない。
だが、放置もしない。
不真面目さを装いながら、
フロー状態を計算している。
ビジネスはフェスである
ビジネスを「獲得」や「攻略」で語る人は多い。
しかし、
本当に強い場は、
参加者が共犯者になる。
売る・買うではなく、
「この場を一緒につくっている」という感覚。
それは編集者的感性からしか生まれない。
編集とは、主張を叫ぶことではない。
空間を編むことだ。
慌てないという戦略
拡がりは大きい方がいい。
だが、慌てない。これは精神論ではない。
慌てた瞬間、場は「目的化」される。
目的化された瞬間、フェスはイベントに堕ちる。
庭はプラント工場になる。
いとうせいこうの園芸記録は、効率化の対極にある。
だがそこには、圧倒的な持続性がある。
文化は、スケールしようとした瞬間に壊れる。
文化は、続いてしまったときに成立する。
私的結論
あの頃、学生だった私は、明確な経営理論を学んだわけではない。
だが、あの軽やかな横断性と、
あの観察のユーモアから、「場をつくること」の本質を教わった気がする。
ビジネスは、制圧ではなく、編集だ。
編集とは、庭づくりだ。
庭が熟したとき、自然とフェスが始まる。
そしてフェスとは、支配ではなく、共犯である。