情報爆発の時代に、ポップカルチャーは「一つ前」になったのか

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選択肢があらゆる分野で増え続けている。
この10年で、私たちの生活は「選べる自由」に満ちたはずだった。

だが今、その自由は少しずつ重荷になりつつある。

日経新聞の記事では、2010年から現在にかけて、
ゲーム、EC、日用品といったB2C分野で商品数が大幅に増加していることが示されている。
任天堂のゲーム数は十数倍、ECの商品点数は億単位へ、
歯磨き粉ですら選択肢は倍増した。

さらに象徴的なのは、
Amazon.com の通販サイトにおいて、
AIに「相談」したユーザーのほうが、購入を決断する割合が6割も高い、という事実だ。

情報は溢れ、選択はAIに委ねられる。
この状況を前にして、こんな問いが自然と浮かぶ。

人類が追い求めてきた「選択の自由」は、
いまや重荷になり、文化はその役目を終えたのではないか。

ポップカルチャーは、
もはや「一つ前の出来事」になってしまったのだろうか。


新旧対比:ポップカルチャーの役割はどう変わったか

かつて、ポップカルチャーは「探索のための装置」だった。

  • 何が流行っているのかを知る
  • 自分の知らない価値観に出会う
  • まだ名前のついていない“好き”を発見する

雑誌、音楽、映画、テレビ。
それらは「選択肢を増やすための文化」だった。

一方、現在はどうだろう。

  • 情報はすでに十分すぎるほどある
  • 比較はレビューと数値で即座に可能
  • AIが最適解を提示してくれる

ポップカルチャーは、
新しいものを“探しに行く”ための道具ではなくなった。

代わりに現れた役割は、こうだ。

  • これを選んでおけば間違っていない
  • この世界観に属していれば安心できる
  • 自分がどの文脈の人間かを確認する

探索の装置から、帰属の装置へ。

この新旧対比だけを見ると、
ポップカルチャーは確かに「役目を終えた」ようにも見える。


それでも残る違和感

だが、どうにも腑に落ちない。

AIが選んでくれるのなら、
なぜ人は今も作品や物語に惹かれるのか。

なぜ「おすすめされたから買った」で終わらず、
「なんかこれが好きなんだ」と語ろうとするのか。

AIは選択を助けてくれる。
だが、「なぜそれを選んだのか」までは説明してくれない。

ここに、小さな違和感が残る。


ポップカルチャーは「一段下に潜った」

結論から言えば、
ポップカルチャーは消えていない。

ただ、見える場所が変わった。

いま私たちの判断構造は、おおよそ三層に分かれている。

  • 表層:AIレコメンド、検索結果、最適化
  • 中層:価格、性能、レビュー、比較表
  • 深層:理由にならない衝動、好み、違和感

AIが覆っているのは、表層と中層だ。
だが、最後の一押しを決めているのは、いつも深層にある。

ポップカルチャーは、
もはや「これを選べ」とは言わない。

代わりに、こう作用する。

  • 何を心地よいと感じるか
  • どんな世界観に安心するか
  • どんな選び方を“自分らしい”と思うか

選択肢ではなく、選択の癖をつくる。

それが、情報爆発後のポップカルチャーの役割だ。


帰属は消えたのではなく、深層化した

新旧対比で見えた「帰属の装置」という側面も、
この構造で捉え直すと違って見える。

帰属は、目立たなくなった。
語られにくくなった。
だが、消えてはいない。

むしろ、
意識されないレベルへ沈んだ。

人はもはや、
「この作品が好きだから私はこのタイプの人間だ」
とは声高に言わない。

だが、
その感覚は、判断の深層で確実に働いている。


AIの決断率6割増は、文化の敗北ではない

AIに相談した人のほうが、購入を決断しやすい。
この事実は、文化の敗北を意味しない。

それは単に、
判断の速度が上がったというだけだ。

判断の“理由”を求める構造は、何も変わっていない。
その理由を与えていた役者が、
表層ではAIに、深層では文化に分かれただけだ。


結びにかえて

情報が溢れ、
選択がAIに委ねられる時代。

人は「何を選ぶか」を手放しつつある。
だが、「どう選びたいか」は手放していない。

ポップカルチャーは、
一つ前の出来事になったのではない。

一段下に潜り、 いまも静かに私たちの判断を歪ませ続けている。

その歪みこそが、
人間が人間であり続けるための、最後の余白なのかもしれない。