― 効率を捨てる覚悟は、あるか。
1. 失われた「偶然の出会い」
脱衣所のガラガラという音。
湯船に身を沈める瞬間の「ふぅ」という吐息。
壁一面に描かれた、少し色あせた富士山。
銭湯には、行く予定ではなかった人を、なぜか引き込んでしまう力がありました。
「今日はいいか」と思っていた夜に、
「まあ、たまには」と暖簾をくぐらせる何か。
一方、現代のデジタルマーケティングはどうでしょうか。
アルゴリズムは賢くなり、「欲しい人」に「欲しいもの」を、最短距離で届けます。
無駄は削られ、ROIは最適化され、レポートは美しい右肩上がりを描きます。
けれど、ふと立ち止まると、違和感が残る。
「まだ欲しいと気づいていない人」と、出会えているだろうか。
マスメディアの時代、テレビCMも新聞広告も、まるで近所の銭湯のようでした。
興味がある人も、ない人も、関係なく視界に入る。
うるさいし、邪魔だし、効率は悪い。
それでも、その「強制的な出会い」の中に、
未来の顧客は確かに眠っていたのです。
2. 銭湯とサウナ― 二つの世界
銭湯が持っていた、不都合な豊かさ
銭湯には、本当にいろいろな人がいました。
仕事帰りのサラリーマン。
近所の商店街のおばちゃん。
受験勉強に疲れた学生。
毎日同じ時間に来る、無口な常連。
誰も「銭湯好きコミュニティ」に属したくて来ているわけではありません。
ただ「家から近い」という、どうしようもない偶然で、同じ湯船に浸かっていました。
正直、快適ではありません。
・話が合わない
・気まずい
・時には不快
それでも、この強制的な多様性が、思いがけない接点を生んでいました。
普段なら交わらない人生が、ほんの一言だけ交差する。
マスメディアも、まったく同じ構造でした。
日曜夜8時にテレビをつければ、皆が同じ番組を見て、同じCMを見る。
「とりあえず目に入る」
この雑な設計こそが、
潜在需要を掘り起こし、想起集合を育て、ブランドという資産を積み上げてきたのです。
サウナが象徴する、現代の合理性
一方、サウナは違います。
サウナに来る人は、「整う」という明確な目的を持っています。
サウナーを自称し、評価アプリを使い、最適な温冷交代浴を語る。
居心地はいい。
無駄がない。
同じ価値観の人しかいない。
そして、整いたくない人は、最初から排除される。
デジタルマーケティングは、まさにこのサウナ的世界です。
検索した人。
過去に訪問した人。
類似オーディエンス。
つまり、「すでに関心を示した人」だけに語りかける。
効率は抜群。
コンバージョンは確実。
でもそれは、既存の顧客プールの中で魚を釣っているだけなのです。
プールそのものが、少しずつ干上がっていることに、気づかないふりをしながら。
3. データが囁く、不都合な警告
数字は、感情よりも正直です。
新規顧客のプロファイルを分析すると、
年齢、興味関心、購買行動が、驚くほど似通っている。
最適化は、
「同じような人を、より効率よく連れてくる装置」になっている。
ブランド検索は伸び悩む。
広告経由のCVは取れているのに、
「そもそもブランド名で検索する人」は増えない。
これは、認知の裾野が広がっていない証拠です。
アトリビューションを深掘りすると、さらに不安になる。
「最初どこで知ったのか」が、辿れない人が増えている。
認知の入口が、見えなくなっているのです。
そしてLTV。
似た顧客ばかりを集め続けた結果、
平均値は横ばい、あるいは下がり始める。
多様性が持っていた成長余地を、私たちは切り捨ててきたのかもしれません。
4. デジタルの海に「銭湯」を浮かべるということ
ここで誤解してほしくない。
昭和に戻れ、マス広告に全振りしろ、という話ではありません。
必要なのは、
デジタルの中に、意図的に「銭湯的偶然」を仕込むことです。
ただし、これは痛みを伴います。
ターゲティングに「ズレ」を入れる覚悟
精密なオーディエンス設計に、あえて10〜20%のズレを混ぜる。
年齢を広げる。
隣接カテゴリを含める。
類似の幅を拡張する。
効率は、確実に落ちます。
ROASは、悪化します。
会議では、説明を求められます。
それでも、これは無駄ではない。
探索コストです。
誰も掘っていない場所を掘るから、鉱脈が見つかる。
既に掘り尽くされた場所で、スコップを振り続けても、未来はありません。
コンテクストという「場」を信じる
過去の行動ではなく、「今、この瞬間」を見る。
これがコンテクスチャルターゲティングです。
育児記事を読んでいるときに、保険を意識する。
転職記事を読んでいるときに、学びを考える。
これは、銭湯で隣に座った見知らぬ人の一言が、
なぜか心に残るのと同じです。
偶然は、設計できないが、用意はできる。
認知という「説明しにくい資産」を守る
短期ROASは、組織を安心させる麻薬です。
即効性はあるが、長期的には思考を鈍らせる。
ブランドリフト。
純粋想起率。
自然検索のブランドワード。
数字になりにくいものに、
正式な目標として予算を割く覚悟を持つ。
「今月は成果が出ません」
そう言える言葉を、経営と共有できるかが分かれ目です。
旅路を、最初から最後まで見る
ラストクリックだけで評価するのは、
銭湯で最後に体を洗った人だけを褒めるようなものです。
最初に誘った人。
きっかけを作った人。
「また来なよ」と言った人。
BigQueryとGA4を使えば、
最初の接触から購入までの道筋は見える。
「どこで知ったのか」に答えられないマーケティングは、 未来を語れない。
5. 変化は、居心地の悪さから始まる
まず、自分たちがどれだけフィルターバブルに閉じているかを知る。
新規顧客は多様か。
獲得経路は偏っていないか。
次に、予算の一部を「説明しにくい施策」に使う。
10%でいい。
むしろ、それ以上はやらなくていい。
大切なのは、
成功よりも発見があるかどうか。
そして評価軸を変える。
短期効率と、長期資産を並べて見る。
両方が育っているかを、定期的に確認する。
これは、楽な仕事ではありません。
6. 銭湯か、サウナか― 選択の話
サウナで整う感覚は、確かに素晴らしい。
最適化されたマーケティングは、美しい。
でも、
効率だけを守るマーケターは多い。 偶然を守れるマーケターは、少ない。
銭湯は、不快で、非効率で、説明しづらい。
それでも、人を増やしてきました。
サウナは、快適で、合理的で、説明しやすい。
でも、人を選びます。
これからのマーケティングに必要なのは、
「両立」という優しい答えではなく、
どちらに軸足を置くかを決める覚悟なのかもしれません。
効率か、偶然か。
刈り取りか、種まきか。
サウナか、銭湯か。
その選択が、
数年後のブランドの姿を、静かに決めていくのです。
